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    薬と神さま 吉岡洋京都芸術大学文明哲学研究所教授

     

    薬と神さま─この二人は、昔はとっても仲が良く、それどころか、そもそもどっちがどっちなのだかハッキリ区別もできないくらい、互いに近しい存在だった。

    昔の神さまは薬のような存在だったので、信じるといっても、それはたんなる心の問題ではなく、毎朝お勤めをするとか、神棚をお掃除するとか、ご飯をいただく前にお祈りを唱えるとか、ようするに信仰とはほとんど習慣の問題にほかならなかった。
    考えてみれば当たり前だが、規則正しい習慣に従って生活すれば、心も身体もたいていは健康を保てる。けれどもそうしたことに私たちはなかなか気がつかず、お賽銭をたくさんあげれば御利益があって当然、みたいに考えてしまう。不謹慎にも、神さまとギブアンドテイクの関係を持とうとするのである。だがそんなこととは無関係に、神さまが私たちの知らないうちにくださる恩恵というものがあり、昔の人はそれを冥利と言った。習慣としての信仰の基本にあるのは、そうした見えない恩恵の意識である。その上に、何か特別な御利益があればもちろん感謝すべきだけれど、たとえなかったとしても感謝は忘れてはいけない。だって冥利があるのだからね。
    一方、薬もまた神様に近い存在だったので、薬とは身体に入れると何らかの作用を生じる、ただの化学物質ではなかった。薬のまわりには何かモヤモヤした神秘的な雲、アウラが漂っていたのである。何をおいても、まずは効くと信じなくちゃ始まらない。そして薬を飲んで運よく病気が治ったとしても、それは本当にその薬の成分が効いたのか、それとも治ると信じた心の力で治ったのか、それはよく分からないし、追求しても仕方がなかった。さらに昔の薬はおおむね万能薬であって、いろんな症状や病気に効く、と謳っているものが少なくなかった。けれどよく考えてみると、なんにでも効くというのは、なんにも効かないというのと紙一重である。薬を用いるとは、この紙一重の上に身を預けるということを意味していた。
    それに対して今の世の中では、薬と神さまとはずいぶん離れ離れになってしまった。つまり薬は身体だけの問題、神さまは心だけの問題、というふうに別れてしまったのである。人々は物事を自分中心に考えるようになり、神さまであれ薬であれ、それに身を預けることをやめて、何事も自分にとって利益があるかどうかで、合理的に判断するようになった。そうなると薬も神さまも、効く効かないが決定的になる。薬は特定の病気を治したり症状を緩和するからこそ意味があり、神さまもそれを信じれば精神的な癒しとか心の安定が得られるというかぎりにおいて意味がある、ということになった。
    そんなこと当たり前で、それでいいじゃないか、と思われるかもしれない。けれども薬と神さまは、かつてあんなに一心同体だったのだから、こんなに別れ別れになってしまっては、寂しいのではないだろうか。そして薬も神さまも、あんまり離れすぎるとそれぞれの力を失ってゆくのではないか─そんな気もするのである。
    美術家の入江早耶はある種不思議な方法で、そんなふうに離れ離れになった薬と神さまとを、もう一度出会わせようとしているように、ぼくには思える。「百薬魔像ダスト」では、薬袋に印刷された薬名や、そこに描かれた鬼、人間、熊、図形などを組み合わせ、細密な聖像を作り出す。まるで神さまが次から次へと湧き出して来る、なんて言うと神さまに失礼かもしれないが、逆に言えば、人間の心だけに呼びかける今の神さまはあまりに尊く厳かな存在になってしまい、いたる所から生まれ出てくる過剰なエネルギーや、感覚に直接訴える親しみを失ってしまわれたのではないか。近代以前の日本には、本当にそこらじゅうに様々な聖像があって、私たちのご祖先はいわばそうした神仏に取り囲まれながら生活していたのに。
    入江早耶の作品は現代の民衆仏なのかもしれない、とも考える。民衆仏というのは、偉い仏師を頼んでお金をかけて制作され、本堂の奥に恭しく納められるような尊像ではなくて、たとえば円空(1632-95)のような旅僧が行く先々でその都度、いろんな素材から次々と彫り出してゆく、もっと人々に近く親しみのある仏さまの姿である。手の届かない超越的存在ではなく、生命力に溢れ、生き物と同じように産まれ増殖してゆく神仏たち─こうした、聖なる存在の持つ生命エネルギーは、実はアートを駆動するエネルギーにも直結しているのである。
    薬と神さまだけではなく、アートと神さまも繋がっている。「犬犬犬ダスト」では、掛け軸に描かれた三匹の子犬から、三つの頭と蛇の尾を持つ地獄の番犬ケルベロスが(でも可愛さは子犬のままで)湧き出してくる。二次元のイメージから三次元の実体が抜け出してくるということのなのだが、これは私たちがアートというものに対して抱いてきた古い想像力を呼び覚ますものだ。「傾城反魂香」や、左甚五郎にまつわる伝説にみられるように、精魂込めて描かれた絵から人や動物が抜け出したり、名工の彫った彫像が生きて動き出す、といった夥しい物語が存在する。そうしたお話を聞いて私たちが痛快に感じるとすれば、それは神さまと同様、アートも今日では心の領域に限定され、たんなる表象の問題と考えられ過ぎていることに、私たちが疲れてしまったからではないのだろうか?

    【個展図録『大悪祭』2022年所収】